特集
新しい音楽の創り方〜静岡時代24号『静岡時代の、音楽論』より
今も移ろい行く世の中の音楽のなかで、ここ静岡で生まれた音楽があります。それが「ボーカロイド」です。今回は、「ボーカロイドの父」と呼ばれるヤマハ株式会社 研究開発センターの剣持秀紀さんのインタビューをお送りします。その時々の静岡の風景や人、空気を切り取りながら生まれた音楽は、一体どんな形をしているのか。静岡県内の大学生が聞いてみました。

◉剣持 秀紀(けんもち ひでき)さん
ヤマハ株式会社 研究開発センター 音声グループマネージャー。
クラシックを聴くときは、必ずレコードで聴くこだわりを持つ。レコードを拭いてセットするのが、真剣に聴くための儀式なのだそう。また、清水フィルハーモニー管弦楽団にも所属し、ヴァイオリン、ヴィオラを演奏されています。
◉平野 志織(ひらの しおり)
静岡時代24号『静岡時代の、音楽論』(2011年秋号)で編集長を務める。静岡県立大学国際関係学部4年(取材当時)。
■音楽には、変わらないところと、変わるところがある
ーー初音ミクで有名な「ボーカロイド」はここ数年でよく耳にしますが、実際どのようなものなんでしょうか?
(剣持さん)「ボーカロイド」というのはヤマハが開発した歌声合成の技術で、「初音ミク」は歌声を合成する元になる音のライブラリ(歌声の断片を集めたもの)と、そのキャラクターです。ボーカロイドのムーブメントは従来型の商業音楽とは違います。これの誕生によって、アマチュアのクリエーターがつくった楽曲を、歌手さえも介在せずにみんなが直接楽しめるようになりました。また、今までは一方通行だったものが、聞いた側もまた別の形での創作活動に参加できるようになりました。
たとえば、今では「コメントアート」という言葉もあるくらい、コメントも創作活動の一つと言えなくもないですね。楽器だけではなく、音楽の作られ方、消費のされ方についてもまったく新しくなってきているんじゃないかなと思います。
でも、音楽には変わらないところと変わるところがあると思います。変わらないところというのは、たとえばクラシックなんかが当てはまると思います。もちろんクラシックの中にも変わる部分はあると思いますが、逆に変わるところの最たるものがボーカロイドだと思います。
ーー確かに音楽のあり方が今の時代にとても合っているように感じます。ところで、ボーカロイドといのは機械音と人の歌声との中間のものなのでしょうか?
(剣持さん)いえ、中間というよりもまったく別の新しいものだと考えた方がいいですね。ボーカロイドは声に似た音が出てくる新しい楽器なんですよ。
ーー楽器、なんですね。
(剣持さん)はい、そうです。これを使うことで、今までできなかったことができるようになってきて、たとえば歌詞の面で人だったら恥ずかしくて歌えないようなものや、メロディーを見てもなかなか歌いづらいものを歌えるようになります。それは音楽を伝える構造が変わったことによって、できるようになったということなんですよね。歴史上振り返ると、新しい楽器が出てくるときには必ず新しい音楽が出てきます。逆に新しい音楽というものはたいてい新しい楽器によって作り出されている場合が多いと思います。
クラシックの世界でいうと、バロック音楽から古典派への転換期にハープシコード(チェンバロ)からピアノになり、打鍵の強さによって強弱表現ができるようになって、新しい表現が生まれました。最近では1980年頃にYMOの用いたシンセサイザーによってテクノの要素が取り込まれ、世界の音楽シーンを変えましたよね。

■機械でつくるからといって、感情がないわけではない
ーー歴史的に見ても楽器と音楽は切り離せないんですね。しかし、その楽器としてのボーカロイドが出す音は感情を持たないはずなのに人間の歌声のように聞こえます。どうしてでしょうか?
(剣持さん)歌声は、機械でつくるからといって感情がないわけではないんですよ。感情は十分に込められています。どうやって込めるのかというと、作り手が歌い方などを直接操作して感情を与えることができます。そしてその通り歌ってくれると。もし、人間の歌手であればそこでその歌手なりの解釈が入って、いくら曲を作った側がディレクションしたとしても、そこにまた新しいオリジナリティが生まれてくるんですが、ボーカロイドは曲を作る側が、出てくることを100%自分の思い通りになるまで作ることができます。そういう風に考えると、作り手が感情の込め方を直接コントロールできるのは理想の状態とも言えるんじゃないかなと思います。とはいっても、歌手が歌うのとは違った新しい解釈ができるということなので、どちらが良い悪いというわけではないんですけどね。
ーー曲を作る人はどのように感情を込めているんですか?
(剣持さん)合成バラメーターというものがあって、それでピッチ(音の高さ)などを細かく上げ下げすることによって表情付けを行います。人間の歌は音符があったからと言ってそのまま歌っているわけじゃないんですよ。音符の示す音程とは全然外れたところで動いていたりする場合もあるんです。だからこのように操作することによって表情を付けて歌うようになります。これが実は感情を込めていることそのものです。魂を入れ込んでいくということです。
曲を作る側はここでどれだけ作り込みをするか、あるいは歌詞そのものも勝負するところだと思うので、どこまで凝るかだと思います。ただし、注意しなければならないのは、演ずる側が感情をあまり込めすぎてもいけないということですね。ボーカロイドはその意味で理想的かなとも思います。それは楽器を演奏する側もそうで、奏者が音楽そのものに感動していてはだめなんですよ。お客さんが感動しなくてはいけないので。演ずる側はどこかで冷静でなくてはいけないと思います。
ーー曲を作るだけでなく、それを演奏する奏者としての意識も大切。奥深いです。それでは最後に、剣持さんにとって音楽とはどのような存在ですか?
(剣持さん)一生かかって付き合っていかなきゃいけない対象だと思います。克服するとかいう意味ではなくて。同じ「聴く」のであれば、流し聞きとかよりも一つの曲にどれだけ集中するかですかね。またボーカロイドについては、実際合成した音と歌声を聴くと人間の歌声はなんと細かな感情といいますが、表情の微妙なコントロールができているのだと愕然とすることがあります。もっと開発を頑張らなきゃならないなという気持ちになりますね(了)

▲2011/10/01発行:静岡時代24号巻頭特集『静岡時代の、音楽論』

◉剣持 秀紀(けんもち ひでき)さん
ヤマハ株式会社 研究開発センター 音声グループマネージャー。
クラシックを聴くときは、必ずレコードで聴くこだわりを持つ。レコードを拭いてセットするのが、真剣に聴くための儀式なのだそう。また、清水フィルハーモニー管弦楽団にも所属し、ヴァイオリン、ヴィオラを演奏されています。
◉平野 志織(ひらの しおり)
静岡時代24号『静岡時代の、音楽論』(2011年秋号)で編集長を務める。静岡県立大学国際関係学部4年(取材当時)。
■音楽には、変わらないところと、変わるところがある
ーー初音ミクで有名な「ボーカロイド」はここ数年でよく耳にしますが、実際どのようなものなんでしょうか?
(剣持さん)「ボーカロイド」というのはヤマハが開発した歌声合成の技術で、「初音ミク」は歌声を合成する元になる音のライブラリ(歌声の断片を集めたもの)と、そのキャラクターです。ボーカロイドのムーブメントは従来型の商業音楽とは違います。これの誕生によって、アマチュアのクリエーターがつくった楽曲を、歌手さえも介在せずにみんなが直接楽しめるようになりました。また、今までは一方通行だったものが、聞いた側もまた別の形での創作活動に参加できるようになりました。
たとえば、今では「コメントアート」という言葉もあるくらい、コメントも創作活動の一つと言えなくもないですね。楽器だけではなく、音楽の作られ方、消費のされ方についてもまったく新しくなってきているんじゃないかなと思います。
でも、音楽には変わらないところと変わるところがあると思います。変わらないところというのは、たとえばクラシックなんかが当てはまると思います。もちろんクラシックの中にも変わる部分はあると思いますが、逆に変わるところの最たるものがボーカロイドだと思います。
ーー確かに音楽のあり方が今の時代にとても合っているように感じます。ところで、ボーカロイドといのは機械音と人の歌声との中間のものなのでしょうか?
(剣持さん)いえ、中間というよりもまったく別の新しいものだと考えた方がいいですね。ボーカロイドは声に似た音が出てくる新しい楽器なんですよ。
ーー楽器、なんですね。
(剣持さん)はい、そうです。これを使うことで、今までできなかったことができるようになってきて、たとえば歌詞の面で人だったら恥ずかしくて歌えないようなものや、メロディーを見てもなかなか歌いづらいものを歌えるようになります。それは音楽を伝える構造が変わったことによって、できるようになったということなんですよね。歴史上振り返ると、新しい楽器が出てくるときには必ず新しい音楽が出てきます。逆に新しい音楽というものはたいてい新しい楽器によって作り出されている場合が多いと思います。
クラシックの世界でいうと、バロック音楽から古典派への転換期にハープシコード(チェンバロ)からピアノになり、打鍵の強さによって強弱表現ができるようになって、新しい表現が生まれました。最近では1980年頃にYMOの用いたシンセサイザーによってテクノの要素が取り込まれ、世界の音楽シーンを変えましたよね。

■機械でつくるからといって、感情がないわけではない
ーー歴史的に見ても楽器と音楽は切り離せないんですね。しかし、その楽器としてのボーカロイドが出す音は感情を持たないはずなのに人間の歌声のように聞こえます。どうしてでしょうか?
(剣持さん)歌声は、機械でつくるからといって感情がないわけではないんですよ。感情は十分に込められています。どうやって込めるのかというと、作り手が歌い方などを直接操作して感情を与えることができます。そしてその通り歌ってくれると。もし、人間の歌手であればそこでその歌手なりの解釈が入って、いくら曲を作った側がディレクションしたとしても、そこにまた新しいオリジナリティが生まれてくるんですが、ボーカロイドは曲を作る側が、出てくることを100%自分の思い通りになるまで作ることができます。そういう風に考えると、作り手が感情の込め方を直接コントロールできるのは理想の状態とも言えるんじゃないかなと思います。とはいっても、歌手が歌うのとは違った新しい解釈ができるということなので、どちらが良い悪いというわけではないんですけどね。
ーー曲を作る人はどのように感情を込めているんですか?
(剣持さん)合成バラメーターというものがあって、それでピッチ(音の高さ)などを細かく上げ下げすることによって表情付けを行います。人間の歌は音符があったからと言ってそのまま歌っているわけじゃないんですよ。音符の示す音程とは全然外れたところで動いていたりする場合もあるんです。だからこのように操作することによって表情を付けて歌うようになります。これが実は感情を込めていることそのものです。魂を入れ込んでいくということです。
曲を作る側はここでどれだけ作り込みをするか、あるいは歌詞そのものも勝負するところだと思うので、どこまで凝るかだと思います。ただし、注意しなければならないのは、演ずる側が感情をあまり込めすぎてもいけないということですね。ボーカロイドはその意味で理想的かなとも思います。それは楽器を演奏する側もそうで、奏者が音楽そのものに感動していてはだめなんですよ。お客さんが感動しなくてはいけないので。演ずる側はどこかで冷静でなくてはいけないと思います。
ーー曲を作るだけでなく、それを演奏する奏者としての意識も大切。奥深いです。それでは最後に、剣持さんにとって音楽とはどのような存在ですか?
(剣持さん)一生かかって付き合っていかなきゃいけない対象だと思います。克服するとかいう意味ではなくて。同じ「聴く」のであれば、流し聞きとかよりも一つの曲にどれだけ集中するかですかね。またボーカロイドについては、実際合成した音と歌声を聴くと人間の歌声はなんと細かな感情といいますが、表情の微妙なコントロールができているのだと愕然とすることがあります。もっと開発を頑張らなきゃならないなという気持ちになりますね(了)

▲2011/10/01発行:静岡時代24号巻頭特集『静岡時代の、音楽論』

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Updated:2016年06月14日 特集