静岡の地元情報が集まる口コミサイト:eしずおか

静岡時代 シズオカガクセイ的新聞

特集

禅問答のように難解な物語の紡ぎ方〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より

よくも悪くも私たちは物語に縛られている。自分を取り巻く物語を自分自身の手で動かせたなら今より格段に生きやすくなるはずだ。SPAC 芸術総監督の宮城聰さんに聞いた、「人生」という明るくも、時に乾いた物語。私たちが生きる物語の本質は“自己の不在” との対峙だった。


禅問答のように難解な物語の紡ぎ方〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より

宮城 聰さん(みやぎ さとし)[写真:中央]
SPAC- 静岡県舞台芸術センター芸術総監督。演出家。
ゴールデンウィークに行われる「ふじのくに野外芸術フェスタ」では駿府城公園にて上演される『イナバとナバホの白兎』を演出。

河田 弥歩(かわた みづほ)[写真:右]
静岡大学人文社会科学部4年。本企画編集長。

加藤 佑里子(かとう ゆりこ)[写真:左]
静岡大学人文社会科学部2年。本記事執筆者。



■人は自分が何者であるかを知りたい生き物

ーー自分がどのような物語の中にいて、どんな役割を持っていて、今どんな展開をしているのか。現状を物語のように把握するにはどうしたらいいでしょうか?

(宮城さん)把握するためのヒントが演劇だと思う。舞台の演技というのは、役者の実人生とは違うわけだから、嘘であることが分かる。そのうえであからさまな演技を見ることで、自分が普段無意識にしている演技を鏡のように見ることができる。どうしてかというと、自分というのは最も近くにいる他人だから。自分の顔は鏡がないと見られないことと同じで、近くにいすぎて見えない。自分が今何をしているのかを知るには一度自分と出会う必要があるんだけど、過去の自分なら少しだけ距離があいているから見える。

それでも、過去の自分を見るには鏡が必要なんだ。比喩的な言い方をすると、過去の自分というのは自分の肩よりも少し後ろにいる。だから今の自分自身よりは少し見えやすいけど、演劇や小説、映画とかを鏡として前にたてるとよりよく見える。さらに言えば、過去の自分というのはそれが何十年前の自分でも、ごく最近の自分でもみんな同じ距離にいる。


ーー過去は全て同じ距離なんですか?
 
(宮城さん)たとえば、昨日の僕も大学生時代の僕もすぐ後ろにいて、いつもくっついてきている。過去の自分はたくさんいるけれど、そいつらはみんな一つにまとまって自分のごく近くにいるんだ。結局すべての自分は一緒に歩いている他人で、人生の同伴者だと僕は思ってる。
 
それなら、その他人をみている自分は何だろうと思うのだけど、ぼくが思うに自分というのは無色透明な瓶のようなもので、それ自体には個性がなく
て味も匂いもない。中に入っているものに味があって、匂いがある。でも中に入っているものは瓶にとっては他者なんだ。
 
でも僕らは、瓶であるにもかかわらず自分は何者かでありたいと思っている。何者でもないと認めることは寂しくて、耐えられないから。だから何かのふりをする。そうすると、人からみえている自分と人からみえていない本当の自分があると思ってしまう。だけどそれは幻なんだ。


禅問答のように難解な物語の紡ぎ方〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より

禅問答のように難解な物語の紡ぎ方〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より

■芸術や物語の中で出会う「自分もどき」という名の他者

ーー私たちは自分の物語を生きるのと同時に、誰かの物語の中にも登場していると思っていたのですが、自分の物語においても自分という存在は何者でもないのですね。
 
(宮城さん)人生という僕らの物語は、布をとってしまった傘の骨だけがカラカラ回っているかのように思えてくる。カラカラ回って、だんだん死に近づいていくもので、非常に無残で乾いたプロセスなんだ。それに気がつく人は本当に少数で、ほとんどの人が「自分は何者かである」と思っているうちに死んでいく。別の言い方をすると、「自分」という本の扉を開けることができたのにそれを途中で断念した、妥協した、諦めたという感覚があると、本を開けると実は白紙だという認識に至らない。

つまり、自分は表紙だけで、中に書いてあるのは借りてきたもの、他人なんだ。それに気づくには一度開けてみなければいけないけど、何らかの理由で多くの場合、途中で放棄される。本の中身を見ていないからそこにはオリジナルの何かがあると思い込んでいる。実際はほとんどの人がそういう状態なんじゃないかと思う。


ーーつまりオリジナルの物語がそこにあるわけではなくて、様々な小説や漫画などのスクラップみたいなものがあるということでしょうか?
 
(宮城さん)大まかに言えばそういうこと。なにかを演じるときは、演じ方を思いつくのではなくて、人を見てまねるんだ。人間は優れた学習能力をもっているので他人の行動に対する周囲の反応を収集している。無意識のうちにいろいろなものをみて、知って、まねている。まねていることの嘘くささを微かに感じているからこそ、人からみえない自分があるような気がしてしまう。だから、本当の自分はないと気が付くためには何か一つの事をやりたいだけやってみるといい。そうすると、結局自分は何もないということに気がつく。
 
でも一つの事をやりたいだけやるということはなかなかできなくて、それは、自分が何者でもないことに微かにが付いているからかもしれない。気が付かなければ、まだ自分は何者かではあるという幻想が残るからね。人間は一方では無色透明であることに気付いていて、執着をなくして人生から何とか辛さを取り除きたいと思っているけれど、同時に自分は何者でもないということにたどり着いたら虚しさに耐えられないのではないかとも思っている。だからその手前でやめてしまう。


禅問答のように難解な物語の紡ぎ方〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より

禅問答のように難解な物語の紡ぎ方〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より


■人生という物語において本当の自分の不在に気付く

ーー瓶の中身は場所が変わると、新しいものが入って入れ替わると思うのですが、入ってくるものは自分の周りの環境に影響されるのでしょうか?
 
(宮城さん)そうだね。例えば、『ハムレット』をみて、「僕もハムレットだ」と思ったとしたら、それは「自分もどき」との出会いなんだよね。そういう自分もどきに出会えば出会うほど、自分がそのものではないと認識できるようになる。要は自分もどきは他者なんだよね。あまり出会わずに過ごしていると、本当の自分がどこかにあるのではないかという幻想が残ってしまう。なるべく瓶の中にたくさんの自分もどきを入れてみるといい。自分が何者でもないと気づくことは、アーティストとしては真理に近づいていると思うし、自分自身、前よりは物事の真理に少し近づいたように感じる。だけど、近づいたことで世界から離れてしまって、世の中の人と隙間ができてしまったようにも思う。だから、このむなしさを感じる人はアーティストや宗教家などのごく少数でよくて、すべての人が自分もどきは他者だとは気が付かなくてもいいかな。

禅問答のように難解な物語の紡ぎ方〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より
△昨年、上演された『ハムレット』の1シーン。古典悲劇も宮城さんのレパートリーのひとつです。[写真撮影:三浦興一] 

一方で、自分もどきと直面できずに、本当の自分があるという思いを肥大化させてしまって、誰も自分のことをわかってくれないという勘違いの孤独を感じている人が多い。これは明らかに勘違いであるから、そういう人は、本当の自分はないと知ることが少しでも救いになると思う。つまり、周囲の環境をかえてみたり、旅をしてみたり、いろんな芸術・物語にふれてみたりして自分もどきとたくさん会うといい。すばらしい芸術をみれば、どこかに自分が映る。
(取材・文/加藤佑里子)

禅問答のように難解な物語の紡ぎ方〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より


合わせて読みたい!【静岡時代の未来予測】バックナンバー

2016/05/09
なぜ人は物語るのか?〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より
人はみんな、意識的にも無意識的にも物語に縛られて生きています。昨日の出来事も、見た夢も、誰かに説明をしようとした時、それは「物語」という形でしか伝えられません。言語学を専門とする静岡大学人文社会科学部の堀博文先生は「そもそもある程度、複雑な世の中でないと物語は発達しない」と言います。


2016/05/17
使われるかもしれない“いつか”のためにアーカイブする〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より
人が考え、伝えるとき、それは物語の構造を孕んでいます。つまり、物語には何らかのメッセージが含まれているということです。古今東西、世の中には物語があふれているけれど、その土地土地に残された古い物語には、私たちが生きやすくなるような手がかりが隠されているのかもしれません。


2016/05/24
文学が先か?音楽が先か?「音」から育てる物語〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」〜
物語の形は文学だけではない。例えば、音楽も音やフレーズに物語性を感じられる。文学も音楽も言語(音素)から発せられる点は同じだが、両者の物語性に関連性はあるのだろうか?日本文学の専門家 渡邊英理先生と指揮者 山下篤さんによる物語の構成要素徹底分析!



同じカテゴリー(特集)の記事画像
新しい音楽の創り方〜静岡時代24号『静岡時代の、音楽論』より
今開かれる、静岡パンドラの箱!〜静岡時代12号『静岡魔界探訪』より
静岡時代を残す人【静岡県立中央図書館】〜静岡時代創刊10年記念号「静岡時代ベスト版」
文学が先か?音楽が先か?「音」から育てる物語〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」〜
使われるかもしれない“いつか”のためにアーカイブする〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より
なぜ人は物語るのか?〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より
同じカテゴリー(特集)の記事
 新しい音楽の創り方〜静岡時代24号『静岡時代の、音楽論』より (2016-06-14 00:00)
 今開かれる、静岡パンドラの箱!〜静岡時代12号『静岡魔界探訪』より (2016-06-07 00:00)
 静岡時代を残す人【静岡県立中央図書館】〜静岡時代創刊10年記念号「静岡時代ベスト版」 (2016-06-03 18:00)
 文学が先か?音楽が先か?「音」から育てる物語〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」〜 (2016-05-24 18:00)
 使われるかもしれない“いつか”のためにアーカイブする〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より (2016-05-17 18:26)
 なぜ人は物語るのか?〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より (2016-05-09 00:00)


上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
削除
禅問答のように難解な物語の紡ぎ方〜静岡時代42号「静岡時代の未来予測」より
    コメント(0)