特集
「学ぶって何ですか?」〜静岡英和学院大学 人間社会学部 古郡康人先生〜
シリーズ:「学ぶって何ですか?」①
私たち学生にとって大学生活を送るということは、イコール「学び」に直結しているわけですが。そもそも大学に入って"学ぶ"とは一体どういうことなのでしょうか。高校までの勉強が、大学に入るとどう変化するのか。今回は「文学」を専門とする静岡英和学院大学の古郡先生に、先生の高校時代から教職につくまでの過程。そして、専門に研究している森鴎外をきっかけに、「文学」とは、「学び」とは何か。を探っていきます。
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●古郡康人先生(写真右)
静岡英和学院大学人間社会学部 学部長
静岡県富士市出身。専門は日本近代文学。学生の頃に森鷗外を読み始める。
1971年当時、月に一冊配本が開始された『鷗外全集』を購読しはじめたのが研究のきっかけ。
●静岡英和学院大学2年/漆畑友紀(写真左)
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■「森鷗外で行こうか。」が私の学問の出発点。
きっかけは、ほんの些細なことでいいんです。
——古郡先生は主に近代文学を専門とされていますが、そもそも「文学」という学問はどのようなものなのでしょうか?
「文学」は文学作品を研究の対象として扱います。森鷗外や夏目漱石などの近代文学から現代の作品まで、研究対象は幅が広いです。みなさんが文学作品に触れたとき、楽しい・哀しいなど感情の起伏が生まれることや、新しい発見をするような経験をしたことがあるでしょう?
文学はその発見に「なぜそのようになったのか」などという問題設定をし、作品をさらに深く読み込む研究をします。
日常会話を含む「言葉」によって成り立つ文学は、言語表現の中でも最も高度なものだと考えています。なぜなら、 例えば小説だと作者は登場人物の中で、あるいは登場人物とは別に、わざわざ語り手を設定し、語り手を通して物語を語っていきますよね。普段の読書のときにはあまり意識しないと思いますが、これらは非常に手が込んでいる高度な言語表現なんです。
少し文学からそれますが、私が思う学問とは、「思い込みは誰でもできるけど、その思い込みをできるだけ多くの人を納得させる真実へ近づかせること」と考えています。もちろん、一人一人の考えは沢山あってもいいものです。しかし、それらの考えを多くの人を「なるほど」と納得させることを目指すのが「学問」なのではないかと私は考えています。それぞれの人が持つ文学作品に対しての考えはそれでいいんだけど、もっとその文学作品を深く読むためには「こういう読み方もあるんじゃないか」と発見したい。大学の「文学」という学問を勉強して、それが発見できればいいんじゃないかと思っています。
私が文学を学問的にアプローチする際は、ただ単に作品を読んで「面白い!」という感想だけで済まさないようにしています。その作品から何が読み取れるのかを追求し、作品を読み解く「方法論」をみつけていくのが文学研究のひとつですね。

——先生は主に森鷗外を研究しているとおっしゃっていたのですが、森鷗外を研究しようとしたきっかけはなんだったのですか?
私が森鷗外を研究しようとしたのは、私が大学一年生のとき。『鷗外全集』が月に一巻ずつ発行されはじめた時期でした。『鷗外全集』は当時の価格が二千円でして、学生にとって二千円はかなりの出費でしたが全38巻ある『鷗外全集』を集めました。”どうせ研究するなら大物作家にしよう”といきごんでいたからですね。その考えと『鷗外全集』が発売される時期が重なったので、「鷗外で行こうか。」と、鴎外を研究することに決めました。学問のきっかけは、ほんのささいなことでいいんですよ(笑)
しかし鷗外を研究していくうちに、鷗外の人間性や日常の背後にある象徴的なものを知ることが出来、どんどんのめりこんでいきました。たとえば、鴎外自身の作品の中に、こんな話があります。「あるところへ宴会に行った。しかし予定よりも早く着いてしまい、一人で待っていたら料理屋の老女将がたくさんの豆を持ってきた。その日は節分で豆を撒く日だったので、老女将が「福は内 鬼は外」と豆を撒いた。その様子がとても生き生きとしていて、見ていてとても気持ちがよかった。一方、そのことをあとからやってきた宴会の主催者に伝えたら、「そうか、だったらもっと盛大にしてやろう!」と若い芸者衆を連れてきて、芸者衆みんなに豆まきをさせた。その様子をみても、まったく感動しなかった」。
はじめてこの作品を読んでみると、これのどこがいいのかちょっとわからないかもしれません。しかし、鷗外はニーチェの「芸術が最も深く感じられるときは、死の魔力がそれを支配したときにあるんだ」という言葉を引用しています。そう考えると、節分といった行事を充実させるのは若い人ではなく、老年の方なんだと作品から読み解くことができますよね。内容と形式というテーマを考えさせる仕掛けになっているんです。
鷗外はただ日常の些細な出来事を描いているのではなく、日常の些細な出来事の背後にある象徴的なものを描いているんだと気づいたとき、作者が森鷗外でなくてもこの作品は作品じたいとして優れているのだと気づくことができました。そういう発見を積み重ねることができるのは、とても楽しい作業なんですよ。

——「学問」と聞くと小難しい・カタいイメージが先行してしまいますが、かまえず、ほんのささいな入り方でもいいんですね。では他に、先生が研究に没頭できた理由はあるのでしょうか?
私の大学時代は、教員になることを考えていたわけではなく、先ほど言った通り森鷗外をはじめとしていろいろな本を読んでいました。ですが研究ということを意識したのは、尊敬できる先生に出会えたことが一番大きいかな。その先生はユニークな方でしたが、尊敬できる方だったなと。尊敬できる先生に出会えることは、大学生の特権だったと、大学生活を送ってそう思いました。
ーー恩師と出会えることはこの上ない喜びに繋がるかもしれませんね。大学は高校と違い自分の好きな学問が学べますよね。でも、「学ぶ」ことを考えてしまうと、大学生を続けていけるか、好きだったはずのものが嫌いになってしまうんじゃないかと不安があります。その不安の中で、学ぶことの意味を見い出すことができるのでしょうか?
そうですね。たとえば、大学生というと学部によって違いはありますが、まずは卒業論文を書かなければならなくなります。私は、卒業論文は研究者としての出発点に立つものだ思っているんです。実際に研究者になるならないは別にして、です。ある学者の方が、「自分が書いてきた論文の中で一番自信があるのは卒業論文だ」とおっしゃっていたように、卒業論文のためだけに一生懸命になる時って他にないですよね。
卒業論文のためだけに一生懸命になれるのは学生だけなのです。卒業論文を書くのは就活の時期と被っているので、卒業論文だけに!となることは中々難しいかと思うかもしれませんが、短い間だけど一つの対象に入れ込むことができる機会は、大学生のときしかないんじゃないかと思います。そして、それが自分にとっての自信に繋がるはずです。これだけは他の人には負けませんという自信です。それが自分にとって生きる糧になっていくはずです。それはすぐ役に立つことではないけれど、とても大事なことです。このことはどんな学問でも言えることなんですよ。

■文学は、作品の中で色んな人生が描かれている。ただそれだけですよね。
——確かに何十年後先のことなんてわかりっこないですね。でも私が、大学へ進学したのは、何十年の未来を見据えた上で、将来の夢と目標が明確にあり、それを叶えるために進学をしました。高校生の頃から私は将来の夢や目標は必ず持っていなければならないとずっと考えていたのですが夢や目標が固まっていなくても、大学へ進学してもいいのでしょうか?

確かに自分のやりたいこと、勉強したいことが決まっているのなら一番に力が付くんだろうと思います。そういうのは社会人学生の勉強に対する姿勢をみてみるとよくわかりますよね。大学に進学し、熱心に勉強する。自分のやりたいことのために勉強がしたいと決まっているから自分より年少の学生に混ざって進学してきていますよね。
しかし、18歳ぐらいで高校卒業してすぐ大学へ進学する方が社会人学生の方と同じような意識を持っている方が不自然のような気がしますね。じゃあ今の学生よりも昔の学生の方が夢や目標を持っていたかどうか、今も昔も個人差があって様々な学生が沢山いて、私はそれでいいと思います。
鷗外は「日本人は生きることを知っているだろうか」と問いかけています。どういう意味なのかと言うと、例えば高校生が高校を卒業して、大学へと進学して、その次には就職をして、と絶えず先の方に自分の人生があると思っているように、鷗外には見えたんでしょう。でも「今」がここにあるから人生はあるのであって「今」がなければ人生はないのです。なのに、絶えず夢をみて、先のことしか考えてないで今ある自分は本当の自分ではない。将来の自分こそが本当の自分なんだと信じて疑わない。こういう考えは、ちょっとおかしいのではないのかと思いますよね。
ーーなるほど。偉大なる作家さんがこうもおっしゃっていたとは驚きですし、なにより何十年先の自分を考えることは当たり前のことだと思っていました。たとえば高校生の進路決定などは将来を考えるひとつの大きな起点にあたると思うのですが、先生はどうだったんでしょうか?
私は高校時代バレーボール部に所属していて、そればかりやっていましたね。受験勉強はしていましたが、受験勉強のときに頑張れば、大学では好きなことが勉強できるんだろうと思っていたわけです。当時の私は自分の好きな勉強はなんなのかわからないけど、漠然と人生について考えようとしていました。人生ってなんだろうと色々と考えていくうちに、文学って色んな小説の中でも色んな人生が描かれていることに気付きました。
そういう、ささいな興味でしたから、大学へ進学した時も文学を研究する動機がまだ漠然としていました。人生を考えるなら哲学の方こそ専門だという考えもあるでしょうし。でも色んなことが有り得るわけだからと当時はそう思っていました。
しかし、学んでいくうちに好きな先生ができたり、勉強しながらこういう見方もあるのか、こんな見方もできるのか、と言う風に目指すべき道が不思議と開けてくるようになるんです。そのときはわからないかもしれないけれど、あとになって振り返ってみると、それには必然性があったと気付くことができるはず。
確かに高校生にとって、進路決定は自分の人生や目指す道を決めるひとつのターニングポイントです。でも、悩まないよりは悩んだ方がいい。なぜなら、自分のことや将来のことを考えているからこそ、悩みは大きくなるものですから。自分が精一杯努力している証だと私は思います。

——この先どうしよう、と焦れば焦るほど決断を早々に決めてしまいがちですが、そういう時だからこそ落ち着いて、自分の中で振り返って考えてみることが大事なんですね。
そうですね。それから、物事を狭く考えないことと、早いうちに自分の好き嫌いを決めつけないようにすることです。数学が苦手で、どうしても出来ない。と思っていても”嫌い”と思わないようにする。毛嫌いさえしなければ、いつ”好き”なものに変わるかわからないからです。そして、「好きこそ物の上手なれ」となれば、もうしめたものです。
せっかちに嫌いだと結論を出さないようにすることが、視野を広げたり、専門力を身につけることにつながっていくと思います。それから、基礎が大事だと思います。土台作りにおいて自分がいい加減にしているところがあったら、細かいとこまで目を光らせてしっかりとやることが大事ですよ。基礎がしっかりしていれば、後でぐーんと伸びます。(了)
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●語り手:
古郡康人先生
静岡英和学院大学人間社会学部 学部長
静岡県富士市出身。専門は日本近代文学。学生の頃に森鷗外を読み始める。
1971年当時、月に一冊配本が開始された『鷗外全集』を購読しはじめたのが研究のきっかけ。
●聞き手:
静岡英和学院大学2年/漆畑友紀
私たち学生にとって大学生活を送るということは、イコール「学び」に直結しているわけですが。そもそも大学に入って"学ぶ"とは一体どういうことなのでしょうか。高校までの勉強が、大学に入るとどう変化するのか。今回は「文学」を専門とする静岡英和学院大学の古郡先生に、先生の高校時代から教職につくまでの過程。そして、専門に研究している森鴎外をきっかけに、「文学」とは、「学び」とは何か。を探っていきます。
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●古郡康人先生(写真右)
静岡英和学院大学人間社会学部 学部長
静岡県富士市出身。専門は日本近代文学。学生の頃に森鷗外を読み始める。
1971年当時、月に一冊配本が開始された『鷗外全集』を購読しはじめたのが研究のきっかけ。
●静岡英和学院大学2年/漆畑友紀(写真左)
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■「森鷗外で行こうか。」が私の学問の出発点。
きっかけは、ほんの些細なことでいいんです。
——古郡先生は主に近代文学を専門とされていますが、そもそも「文学」という学問はどのようなものなのでしょうか?
「文学」は文学作品を研究の対象として扱います。森鷗外や夏目漱石などの近代文学から現代の作品まで、研究対象は幅が広いです。みなさんが文学作品に触れたとき、楽しい・哀しいなど感情の起伏が生まれることや、新しい発見をするような経験をしたことがあるでしょう?
文学はその発見に「なぜそのようになったのか」などという問題設定をし、作品をさらに深く読み込む研究をします。
日常会話を含む「言葉」によって成り立つ文学は、言語表現の中でも最も高度なものだと考えています。なぜなら、 例えば小説だと作者は登場人物の中で、あるいは登場人物とは別に、わざわざ語り手を設定し、語り手を通して物語を語っていきますよね。普段の読書のときにはあまり意識しないと思いますが、これらは非常に手が込んでいる高度な言語表現なんです。
少し文学からそれますが、私が思う学問とは、「思い込みは誰でもできるけど、その思い込みをできるだけ多くの人を納得させる真実へ近づかせること」と考えています。もちろん、一人一人の考えは沢山あってもいいものです。しかし、それらの考えを多くの人を「なるほど」と納得させることを目指すのが「学問」なのではないかと私は考えています。それぞれの人が持つ文学作品に対しての考えはそれでいいんだけど、もっとその文学作品を深く読むためには「こういう読み方もあるんじゃないか」と発見したい。大学の「文学」という学問を勉強して、それが発見できればいいんじゃないかと思っています。
私が文学を学問的にアプローチする際は、ただ単に作品を読んで「面白い!」という感想だけで済まさないようにしています。その作品から何が読み取れるのかを追求し、作品を読み解く「方法論」をみつけていくのが文学研究のひとつですね。
——先生は主に森鷗外を研究しているとおっしゃっていたのですが、森鷗外を研究しようとしたきっかけはなんだったのですか?
私が森鷗外を研究しようとしたのは、私が大学一年生のとき。『鷗外全集』が月に一巻ずつ発行されはじめた時期でした。『鷗外全集』は当時の価格が二千円でして、学生にとって二千円はかなりの出費でしたが全38巻ある『鷗外全集』を集めました。”どうせ研究するなら大物作家にしよう”といきごんでいたからですね。その考えと『鷗外全集』が発売される時期が重なったので、「鷗外で行こうか。」と、鴎外を研究することに決めました。学問のきっかけは、ほんのささいなことでいいんですよ(笑)
しかし鷗外を研究していくうちに、鷗外の人間性や日常の背後にある象徴的なものを知ることが出来、どんどんのめりこんでいきました。たとえば、鴎外自身の作品の中に、こんな話があります。「あるところへ宴会に行った。しかし予定よりも早く着いてしまい、一人で待っていたら料理屋の老女将がたくさんの豆を持ってきた。その日は節分で豆を撒く日だったので、老女将が「福は内 鬼は外」と豆を撒いた。その様子がとても生き生きとしていて、見ていてとても気持ちがよかった。一方、そのことをあとからやってきた宴会の主催者に伝えたら、「そうか、だったらもっと盛大にしてやろう!」と若い芸者衆を連れてきて、芸者衆みんなに豆まきをさせた。その様子をみても、まったく感動しなかった」。
はじめてこの作品を読んでみると、これのどこがいいのかちょっとわからないかもしれません。しかし、鷗外はニーチェの「芸術が最も深く感じられるときは、死の魔力がそれを支配したときにあるんだ」という言葉を引用しています。そう考えると、節分といった行事を充実させるのは若い人ではなく、老年の方なんだと作品から読み解くことができますよね。内容と形式というテーマを考えさせる仕掛けになっているんです。
鷗外はただ日常の些細な出来事を描いているのではなく、日常の些細な出来事の背後にある象徴的なものを描いているんだと気づいたとき、作者が森鷗外でなくてもこの作品は作品じたいとして優れているのだと気づくことができました。そういう発見を積み重ねることができるのは、とても楽しい作業なんですよ。
——「学問」と聞くと小難しい・カタいイメージが先行してしまいますが、かまえず、ほんのささいな入り方でもいいんですね。では他に、先生が研究に没頭できた理由はあるのでしょうか?
私の大学時代は、教員になることを考えていたわけではなく、先ほど言った通り森鷗外をはじめとしていろいろな本を読んでいました。ですが研究ということを意識したのは、尊敬できる先生に出会えたことが一番大きいかな。その先生はユニークな方でしたが、尊敬できる方だったなと。尊敬できる先生に出会えることは、大学生の特権だったと、大学生活を送ってそう思いました。
ーー恩師と出会えることはこの上ない喜びに繋がるかもしれませんね。大学は高校と違い自分の好きな学問が学べますよね。でも、「学ぶ」ことを考えてしまうと、大学生を続けていけるか、好きだったはずのものが嫌いになってしまうんじゃないかと不安があります。その不安の中で、学ぶことの意味を見い出すことができるのでしょうか?
そうですね。たとえば、大学生というと学部によって違いはありますが、まずは卒業論文を書かなければならなくなります。私は、卒業論文は研究者としての出発点に立つものだ思っているんです。実際に研究者になるならないは別にして、です。ある学者の方が、「自分が書いてきた論文の中で一番自信があるのは卒業論文だ」とおっしゃっていたように、卒業論文のためだけに一生懸命になる時って他にないですよね。
卒業論文のためだけに一生懸命になれるのは学生だけなのです。卒業論文を書くのは就活の時期と被っているので、卒業論文だけに!となることは中々難しいかと思うかもしれませんが、短い間だけど一つの対象に入れ込むことができる機会は、大学生のときしかないんじゃないかと思います。そして、それが自分にとっての自信に繋がるはずです。これだけは他の人には負けませんという自信です。それが自分にとって生きる糧になっていくはずです。それはすぐ役に立つことではないけれど、とても大事なことです。このことはどんな学問でも言えることなんですよ。
■文学は、作品の中で色んな人生が描かれている。ただそれだけですよね。
——確かに何十年後先のことなんてわかりっこないですね。でも私が、大学へ進学したのは、何十年の未来を見据えた上で、将来の夢と目標が明確にあり、それを叶えるために進学をしました。高校生の頃から私は将来の夢や目標は必ず持っていなければならないとずっと考えていたのですが夢や目標が固まっていなくても、大学へ進学してもいいのでしょうか?
確かに自分のやりたいこと、勉強したいことが決まっているのなら一番に力が付くんだろうと思います。そういうのは社会人学生の勉強に対する姿勢をみてみるとよくわかりますよね。大学に進学し、熱心に勉強する。自分のやりたいことのために勉強がしたいと決まっているから自分より年少の学生に混ざって進学してきていますよね。
しかし、18歳ぐらいで高校卒業してすぐ大学へ進学する方が社会人学生の方と同じような意識を持っている方が不自然のような気がしますね。じゃあ今の学生よりも昔の学生の方が夢や目標を持っていたかどうか、今も昔も個人差があって様々な学生が沢山いて、私はそれでいいと思います。
鷗外は「日本人は生きることを知っているだろうか」と問いかけています。どういう意味なのかと言うと、例えば高校生が高校を卒業して、大学へと進学して、その次には就職をして、と絶えず先の方に自分の人生があると思っているように、鷗外には見えたんでしょう。でも「今」がここにあるから人生はあるのであって「今」がなければ人生はないのです。なのに、絶えず夢をみて、先のことしか考えてないで今ある自分は本当の自分ではない。将来の自分こそが本当の自分なんだと信じて疑わない。こういう考えは、ちょっとおかしいのではないのかと思いますよね。
ーーなるほど。偉大なる作家さんがこうもおっしゃっていたとは驚きですし、なにより何十年先の自分を考えることは当たり前のことだと思っていました。たとえば高校生の進路決定などは将来を考えるひとつの大きな起点にあたると思うのですが、先生はどうだったんでしょうか?
私は高校時代バレーボール部に所属していて、そればかりやっていましたね。受験勉強はしていましたが、受験勉強のときに頑張れば、大学では好きなことが勉強できるんだろうと思っていたわけです。当時の私は自分の好きな勉強はなんなのかわからないけど、漠然と人生について考えようとしていました。人生ってなんだろうと色々と考えていくうちに、文学って色んな小説の中でも色んな人生が描かれていることに気付きました。
そういう、ささいな興味でしたから、大学へ進学した時も文学を研究する動機がまだ漠然としていました。人生を考えるなら哲学の方こそ専門だという考えもあるでしょうし。でも色んなことが有り得るわけだからと当時はそう思っていました。
しかし、学んでいくうちに好きな先生ができたり、勉強しながらこういう見方もあるのか、こんな見方もできるのか、と言う風に目指すべき道が不思議と開けてくるようになるんです。そのときはわからないかもしれないけれど、あとになって振り返ってみると、それには必然性があったと気付くことができるはず。
確かに高校生にとって、進路決定は自分の人生や目指す道を決めるひとつのターニングポイントです。でも、悩まないよりは悩んだ方がいい。なぜなら、自分のことや将来のことを考えているからこそ、悩みは大きくなるものですから。自分が精一杯努力している証だと私は思います。
——この先どうしよう、と焦れば焦るほど決断を早々に決めてしまいがちですが、そういう時だからこそ落ち着いて、自分の中で振り返って考えてみることが大事なんですね。
そうですね。それから、物事を狭く考えないことと、早いうちに自分の好き嫌いを決めつけないようにすることです。数学が苦手で、どうしても出来ない。と思っていても”嫌い”と思わないようにする。毛嫌いさえしなければ、いつ”好き”なものに変わるかわからないからです。そして、「好きこそ物の上手なれ」となれば、もうしめたものです。
せっかちに嫌いだと結論を出さないようにすることが、視野を広げたり、専門力を身につけることにつながっていくと思います。それから、基礎が大事だと思います。土台作りにおいて自分がいい加減にしているところがあったら、細かいとこまで目を光らせてしっかりとやることが大事ですよ。基礎がしっかりしていれば、後でぐーんと伸びます。(了)
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●語り手:
古郡康人先生
静岡英和学院大学人間社会学部 学部長
静岡県富士市出身。専門は日本近代文学。学生の頃に森鷗外を読み始める。
1971年当時、月に一冊配本が開始された『鷗外全集』を購読しはじめたのが研究のきっかけ。
●聞き手:
静岡英和学院大学2年/漆畑友紀
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Updated:2014年06月23日 特集