特集
静岡文化芸術大学学長 熊倉先生に聞く「静岡の大学今昔」
連続特集:「静岡の大学で学ぶことのそもそも論」~カレッジサミットができるまで
去る2012年末、とある大学生のアイデアが、静岡県の大学生と静岡県庁が共同でつくるSNS『静岡未来』のなかで反響を呼びました。題して「静岡県カレッジサミット」構想。
◎https://www.facebook.com/photo.php?fbid=218765448248474&set=a.179280012197018.18201.174268652698154&type=1&theater
構想の実現に向けて動き出したわたしたちは、まず「そもそもなぜ静岡県で学ぶのか」みたいなところから考え始めなくてはならないのだなと思いました。だって、正直私たちは大学進学に“抜き差しならない理由があって”という世代ではないから。
戦前戦中までの「大学に通えるのはエリート中のエリート」と言われていた時代、そして戦後の学制発布以後、学生運動が吹き荒れた時代から、高度成長期の終焉と大学全入時代へ。大学と大学生はどのように変わってきたのか、そしてその都度大学生は何を学んできたのか。静岡文化芸術大学学長・熊倉先生に伺いました。
学生時代は文学部の集まりで研究会をするのが愉しみだったという熊倉先生。大切なのは「死に物狂い」になる瞬間をもつことなのだと。大学全入時代といわれるなか「大学生」になった私たち現役生(これはこれで正直、しんどいこともある)、これから大学進学を目指す高校生・受験生全員が必読の5000字です。
聞き手は、カレッジサミット運営メンバーの梅田愛さん(静岡文化芸術大学デザイン学部4年)と同運営メンバーであり、静岡大学にて地域連携プロジェクトを行っている河村明里さん(静岡大学人文社会科学部2年)。

●熊倉功夫先生(写真中央)
静岡文化芸術大学学長。東京都出身。1965年東京教育大学文学部卒業。1971年同大学博士課程退学。2010年より現職。専門は日本文化史、茶道史。日本食文化の世界無形遺産登録に向けた検討会では会長を務めた。
●聞き手:梅田愛さん(写真右から2番目)
静岡文化芸術大学デザイン学部生産造形学科4年(2013年卒業)。静岡県出身。静岡県カレッジサミットの企画・運営メンバー。大学では、木や鉄、プラスチックを使い作品を制作。この春、大学卒業後、県内のデザイン会社へ就職する。
●聞き手:河村明里さん(写真左)
静岡大学人文社会科学部経済学科2年。愛知県出身。静岡県カレッジサミットの企画・運営メンバー。大学では財政学を専門としたゼミに所属しているほか、地域連携プロジェクトの第一期生として活動。
・公立大学法人 静岡文化芸術大学HP:http://www.suac.ac.jp
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今回、訪れたのは浜松市中区に位置する静岡文化芸術大学。浜松駅から徒歩15分。創立14年目。文化政策学部とデザイン学部に分かれる文芸大は約1400人の学生が通います。
いわゆる「大学生=エリート」ではなくなった。風当たりの強いこの時代、どう学び生きていくのか
――私たちは「大学全入時代」といわれる世代です。全入時代といわれるなかで、私たち「大学生」も昔よりも厳しい目で見られていくはず。今と昔、「大学」はどのように変わってきたのでしょうか?
(熊倉先生)昔は旧制高校があって、大学がありましたが、戦前の旧制の学位制度と戦後の新制の学位制度を比べると、そもそも旧制の頃は進学率はものすごく低いわけです。僕らが大学に入った頃、先生方にさんざん馬鹿にされてね。旧制で勉強をされてきた先生からみると、新制大学の僕らは子供みたいで、「昔の旧制高校の学生よりも学力が低い」と言われてきました。昔は高等学校に行く人そのものが少なくて、大学に通える学生はエリート中のエリートだったんです。戦後、新制大学になって、従来「高等学校」「師範学校」と呼ばれていたものがみんな地方大学になりました。各県に国立大学ができ、旧制の先生方からは「駅弁大学」と馬鹿にされました。旧制帝国大学は全国に7大学しかありませんでしたからね。
現在の大学は進学率が50%を超える「全入制」です。高校に行かない人はまずいないし、そのうち50~60%が大学へ行きます。行き先さえ選ばなければほとんど入れてしまう。学生の学力が下がっているとも言われています。でも、それは僕らも言われたことです。諸君も言われて当たり前のことなんですよね。これはどういうことかというと、今の大学を昔の大学のイメージで思い描いていると、「間違ってしまう」ということなんです。今の時代の大学はどうあるべきか、ということを考えていかなくてはいけません。
——大学が就職予備校と言われてしまうことも、ものすごく悔しいです。今の時代、大学や私たち大学生はどうあるべきでしょうか?
(熊倉先生)昔は19世紀的な学問の世界で、例えば、文学部、理学部、工学部、医学部、農学部など学部が非常に明快でした。今は4つ文字やカタカナ書きの学部が増えてきました。だいたい文化政策学部なんて、なにやる学部か分からないですよね。高校生にとってもそれは同じです。高校はいま受験技術伝授学校になってきていて、何を主体的に選ぶかということがとても難しい。どうやって自分がやりたい方向性を見つけるかが大事です。だから、諸君のやるべきことのひとつとして、自分の体験を高校生に伝えることは非常に大事だと思います。オープンキャンパスで高校生が来るのを待つのではなく、高校の現場に行って伝えていってほしいですね。
さらに、今は大学まで「高校化」してしまっています。授業で教えられたことを記憶して、試験で問われる。そういうのは高校の勉強です。先生方も学生も気の毒です。そうでない大学をつくっていかないといけません。諸君の先生方は「授業をすること」に必死なんですよ。前期なら前期で15回講義をしなくてはならない、義務なんです。まず第一に休めない。こんなことは昔はなくてね、僕らの大学の時代は前期なら前期10回やれば上等だったね。もう年がら年中休講でした。
——一回休講があれば、きっちり補講もあります……。熊倉先生はどんな学生時代を過ごしていたのですか?
(熊倉先生)当時は学生運動が盛んで、全学学生集会というものがありました。何か反対することを見つけて全学ストライキをするんです。「スト権確立」という看板がでると授業がないわけです。みんな、遊んでましたね。一方で、諸君の時代は「授業」が非常に重要になってきています。僕らの時代は、授業はそこまで問題じゃなかった。僕は文学部でしたが、文学部の連中はお互いに「研究会」をやることが愉しみだったんです。読書会をやったり、先輩について調査にいったり。僕は日本史だったから、江戸時代の文字を読むことがあったんですが、手ほどきがないと読めないような文字なんです。それを誰が教えてくれるかというと、先輩なんですよね。
今は、なるべく学生に効率的に技術を授けることが先決問題になっています。要するに、早く社会に出て役に立つ人間を育てようということ。これはよくない。昔は教養部があり、1~2年はそれほど自分の方向性を決めなくてもいいという期間があったんです。大雑把に文学部、という程度でよかった。今は学科まで決めて入学しますよね。つまり(学科側の)4年間で教えるべき内容と目標、どういう学生を作り出そうか、というイメージが出来ているところに入ってくるということ。その路線に沿っていかなくてはならない。それではミスマッチが起きます。これは効率はいいけれども、本当にそのひとの主体的な選んだものになっているかというと問題があると思います。

和食の無形文化遺産登録の責任者であり、今も講演会などで演説をされている
——確かに。ですが、主体的に選びたいけれど、かといって何を基準に選んだらいいのか難しいです。
(熊倉先生)2つ考え方があって、人間は主体的に考え、自分で選び、自分で個性をのばしていくのがいいという教育もあります。それが戦後教育。一方で、もう先行きのことなんて分からないんだから、教え込み鋳型に固めていってでも、きちんとした人間として生きる術を身につける方がいいという考え方もあります。それが職人の考え方。どちらがいいかというのは難しいですよね。僕は両方あると思うんです。自分の興味のないことやってもしょうがない。自分で選んだ上で、ああだこうだ言わせないような強烈な教育が必要です。これからの教育に求められてくるものだと思います。
静岡文化芸術大学では、今後はなるべく自由度を高め、教養を重視しようと思っています。これまで専門科目にあったものをなるべく全学科目に移したり、デザイン学部だったら今ある3学科(生産造形学科・メディア造形学科・空間造形学科)を全て廃止して1学部1学科にしたり。デザイン学部の場合は、大学に入って何をやろうというのは入学してから1年かけて考えて決めるというシステム。今の高校で選びきれない部分を大学にきてから選ぶという方向で考えています。
どこの大学も今の時代にあわせて何をしたらいいかを考えている時代です。各大学でどんな悩みをもって、どのように解決しようとしているのかを取材して、お互いに学生同士で、学生目線で検証したらいいと思う。「大学は大学でやっているけど、そんなことやってもなんにもならんよ」ということは学生でないといえないですからね。

250枚にも及ぶ修士論文を書いたのだそう。リアカーで運んでくるくらいの量を書いた人もおり、当時はそれでようやく「卒論」と認められた時代。

昔、岡山の大学に行った時に猪しかいないような場所だったそうで、そう思うと文芸大はとても良い立地にあるとのこと
遠くのものはよくみえる。でも、本当にいいものというのは地元にあるんだよ。
――構想中の静岡県カレッジサミットには、「静岡県の大学で学びたい」と憧れる人を増やしたいという思いがあります。静岡県だから学べることはありますか?
(熊倉先生)実は静岡文化芸術大学のデザイン学部は7割以上が他府県出身なんです。全国的なレベルで興味をもたれているということです。これは大学が個性化していくとみんなそういう傾向になると思います。秋田国際大学のように90%以上が県外出身者というケースもあるわけです。いいか悪いかは別として。僕は50%は「県内」を確保したい。地元というものが一番大事なんです。遠くのものはよくみえる。でも、本当にいいものは地元にあるんですよ。
僕は和食も一つの研究分野にしていますが、和食というのは「地元のものを食べる」ということです。昔の生活で言えば、自分の畑で採れた野菜を煮て食べて、自分が手をかけたもの、あるいは周りの知人たちからのものを食べていました。そこには、安心感と愛着があります。出来たものと自分との関係がものすごく深いわけです。それを食べるということが「和食」です。今、ものと人間、自分の関係が浅くて、薄くて、軽いものになってきている。
静岡県に住んでいるということは、静岡のものを食べる、静岡のものを使う、身の回りのものと我々がどう密着しているかを実感することだと思います。静岡は自然に恵まれ素晴らしい環境が整っている土地です。花き栽培は日本第3位、1人あたりのお米の消費量も静岡が1位なんですよ。そしてもうひとつ、静岡には東海道がある。五街道制度ができて以来約400年間、静岡は交通の要衝の地なんです。新幹線の駅が6つもある県なんて他にはありませんよ。静岡は交通の面で文化の遺産が多くあるところです。諸君はもっと地元を学ぶべきだと思う。地元の、静岡の素晴らしさを学ぶことが静岡にいることの価値ですよ。そのことを大学生活で満喫してほしいですね。
――県内の大学生に静岡の大学に来てよかったことを聞くと、「恵まれた自然」は圧倒的に多い回答でした(※)。そのような地元のよいところをどのように学び、活かすことができるのでしょうか。(※静岡時代調べ)
(熊倉先生)例えば、富士山。富士山には弥勒信仰というものがあり、弥勒菩薩と呼ばれる人たちが登ったといわれるひとつ霊場です。容易に富士山に行けないような場所では、至る所にミニチュアの富士山をつくるんです。東京都の駒込富士神社には、高さ15~20メートルの富士山があります。護国寺の境内や今はなくなってしまったけど、早稲田にも高田富士という富士山があったんですよ。そこから「なぜ富士山なのか?」という日本人の宗教観の原点がみえてくるわけです。このような静岡にある文化の種(=シーズ)を我々がみつけてくる。そして、大学にその学問的なシーズがある。次にそれをどのように活かすかというと、地元の要求です。だからこそ、我々は地域と密着していかなければなりません。地域が大学に何を期待しているのか、学生に何を期待しているのかを見つけ、マッチングさせていくことが大事です。
「カレッジサミット」も、大学生同士が地域とどんな活動を起こそうか、何が足りないのか、何が問題なのかをお互いに話合える場になるといいね。体験のなかから出された要求は、学生といえどおそらく強い。そういうことがカレッジサミットで話し合えると次のステップに行くいろんな芽がでてくる気がしますね。自分のやりたいことを予算化できないというのが一つ課題だと思いますが、「こういうことをやりたいから、これに見合った予算項目をつくってください」と学生諸君から要求することが必要です。県のレベルだと出来るはずなんです。大学には学生支援経費もありますし、そこに持ち込んでみるのも良いと思いますよ。
倒れて動けなくなるほど、死に物狂いになること
――ありがとうございます!大いに参考にさせていただきます。最後に、熊倉先生は大学生にこれからどうなってもらいたいと思いますか?
(熊倉先生)死に物狂いになる瞬間、を是非もってもらいたいです。大学生は時間が無限にあるといえばあります。無為に時間を過ごすことはある意味で青春の特権で、なんにも生産しないんだけど、そういう時間も大事だと思う。けれども、どこかで無我夢中になって勉強するということをしてほしい。5を要求されたら10返さなくちゃいけない。全部は無理でも、自分が面白いと思ったテーマだったら「この程度」で済まさない。例えば、1600字なら1600字のレポートに30枚くらいの付録つけてだすとかね。僕の場合は卒業論文でしたね。250枚くらい書いたんだけど、本当に懸命に書いて、提出する日についに私は倒れてね。目が覚めたら天井がぐるぐる回っていました。動けなくて、友達に頼んで大学に届けてもらいました。そういう充実感が大事。結局、そのとき勉強したものが一生の種になるんですよ。そういうものを1つ、大学時代に経験してもらいたいと思いますね。
(取材・文/梅田愛)

「いつでも学長室には遊びに来ていいんだよ」と優しい笑顔で迎えてくれました
●熊倉功夫先生(写真中央)
静岡文化芸術大学学長。東京都出身。1965年東京教育大学文学部卒業。1968年同大学修士課程修了。2010年より現職。専門は日本文化史、茶道史。日本食文化の世界無形遺産登録に向けた検討会では会長を務めた。
●聞き手:梅田愛さん(写真右から2番目)
静岡文化芸術大学デザイン学部生産造形学科4年(2013年卒業)。静岡県出身。静岡県カレッジサミットの企画・運営メンバー。大学では、木や鉄、プラスチックを使い作品を制作。この春、大学卒業後、県内のデザイン会社へ就職する。
●聞き手:河村明里さん(写真左)
静岡大学人文社会科学部経済学科2年。愛知県出身。静岡県カレッジサミットの企画・運営メンバー。大学では財政学を専門としたゼミに所属しているほか、地域連携プロジェクトの第一期生として活動。
去る2012年末、とある大学生のアイデアが、静岡県の大学生と静岡県庁が共同でつくるSNS『静岡未来』のなかで反響を呼びました。題して「静岡県カレッジサミット」構想。
◎https://www.facebook.com/photo.php?fbid=218765448248474&set=a.179280012197018.18201.174268652698154&type=1&theater
構想の実現に向けて動き出したわたしたちは、まず「そもそもなぜ静岡県で学ぶのか」みたいなところから考え始めなくてはならないのだなと思いました。だって、正直私たちは大学進学に“抜き差しならない理由があって”という世代ではないから。
戦前戦中までの「大学に通えるのはエリート中のエリート」と言われていた時代、そして戦後の学制発布以後、学生運動が吹き荒れた時代から、高度成長期の終焉と大学全入時代へ。大学と大学生はどのように変わってきたのか、そしてその都度大学生は何を学んできたのか。静岡文化芸術大学学長・熊倉先生に伺いました。
学生時代は文学部の集まりで研究会をするのが愉しみだったという熊倉先生。大切なのは「死に物狂い」になる瞬間をもつことなのだと。大学全入時代といわれるなか「大学生」になった私たち現役生(これはこれで正直、しんどいこともある)、これから大学進学を目指す高校生・受験生全員が必読の5000字です。
聞き手は、カレッジサミット運営メンバーの梅田愛さん(静岡文化芸術大学デザイン学部4年)と同運営メンバーであり、静岡大学にて地域連携プロジェクトを行っている河村明里さん(静岡大学人文社会科学部2年)。
●熊倉功夫先生(写真中央)
静岡文化芸術大学学長。東京都出身。1965年東京教育大学文学部卒業。1971年同大学博士課程退学。2010年より現職。専門は日本文化史、茶道史。日本食文化の世界無形遺産登録に向けた検討会では会長を務めた。
●聞き手:梅田愛さん(写真右から2番目)
静岡文化芸術大学デザイン学部生産造形学科4年(2013年卒業)。静岡県出身。静岡県カレッジサミットの企画・運営メンバー。大学では、木や鉄、プラスチックを使い作品を制作。この春、大学卒業後、県内のデザイン会社へ就職する。
●聞き手:河村明里さん(写真左)
静岡大学人文社会科学部経済学科2年。愛知県出身。静岡県カレッジサミットの企画・運営メンバー。大学では財政学を専門としたゼミに所属しているほか、地域連携プロジェクトの第一期生として活動。
・公立大学法人 静岡文化芸術大学HP:http://www.suac.ac.jp
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今回、訪れたのは浜松市中区に位置する静岡文化芸術大学。浜松駅から徒歩15分。創立14年目。文化政策学部とデザイン学部に分かれる文芸大は約1400人の学生が通います。
いわゆる「大学生=エリート」ではなくなった。風当たりの強いこの時代、どう学び生きていくのか
――私たちは「大学全入時代」といわれる世代です。全入時代といわれるなかで、私たち「大学生」も昔よりも厳しい目で見られていくはず。今と昔、「大学」はどのように変わってきたのでしょうか?
(熊倉先生)昔は旧制高校があって、大学がありましたが、戦前の旧制の学位制度と戦後の新制の学位制度を比べると、そもそも旧制の頃は進学率はものすごく低いわけです。僕らが大学に入った頃、先生方にさんざん馬鹿にされてね。旧制で勉強をされてきた先生からみると、新制大学の僕らは子供みたいで、「昔の旧制高校の学生よりも学力が低い」と言われてきました。昔は高等学校に行く人そのものが少なくて、大学に通える学生はエリート中のエリートだったんです。戦後、新制大学になって、従来「高等学校」「師範学校」と呼ばれていたものがみんな地方大学になりました。各県に国立大学ができ、旧制の先生方からは「駅弁大学」と馬鹿にされました。旧制帝国大学は全国に7大学しかありませんでしたからね。
現在の大学は進学率が50%を超える「全入制」です。高校に行かない人はまずいないし、そのうち50~60%が大学へ行きます。行き先さえ選ばなければほとんど入れてしまう。学生の学力が下がっているとも言われています。でも、それは僕らも言われたことです。諸君も言われて当たり前のことなんですよね。これはどういうことかというと、今の大学を昔の大学のイメージで思い描いていると、「間違ってしまう」ということなんです。今の時代の大学はどうあるべきか、ということを考えていかなくてはいけません。
——大学が就職予備校と言われてしまうことも、ものすごく悔しいです。今の時代、大学や私たち大学生はどうあるべきでしょうか?
(熊倉先生)昔は19世紀的な学問の世界で、例えば、文学部、理学部、工学部、医学部、農学部など学部が非常に明快でした。今は4つ文字やカタカナ書きの学部が増えてきました。だいたい文化政策学部なんて、なにやる学部か分からないですよね。高校生にとってもそれは同じです。高校はいま受験技術伝授学校になってきていて、何を主体的に選ぶかということがとても難しい。どうやって自分がやりたい方向性を見つけるかが大事です。だから、諸君のやるべきことのひとつとして、自分の体験を高校生に伝えることは非常に大事だと思います。オープンキャンパスで高校生が来るのを待つのではなく、高校の現場に行って伝えていってほしいですね。
さらに、今は大学まで「高校化」してしまっています。授業で教えられたことを記憶して、試験で問われる。そういうのは高校の勉強です。先生方も学生も気の毒です。そうでない大学をつくっていかないといけません。諸君の先生方は「授業をすること」に必死なんですよ。前期なら前期で15回講義をしなくてはならない、義務なんです。まず第一に休めない。こんなことは昔はなくてね、僕らの大学の時代は前期なら前期10回やれば上等だったね。もう年がら年中休講でした。
——一回休講があれば、きっちり補講もあります……。熊倉先生はどんな学生時代を過ごしていたのですか?
(熊倉先生)当時は学生運動が盛んで、全学学生集会というものがありました。何か反対することを見つけて全学ストライキをするんです。「スト権確立」という看板がでると授業がないわけです。みんな、遊んでましたね。一方で、諸君の時代は「授業」が非常に重要になってきています。僕らの時代は、授業はそこまで問題じゃなかった。僕は文学部でしたが、文学部の連中はお互いに「研究会」をやることが愉しみだったんです。読書会をやったり、先輩について調査にいったり。僕は日本史だったから、江戸時代の文字を読むことがあったんですが、手ほどきがないと読めないような文字なんです。それを誰が教えてくれるかというと、先輩なんですよね。
今は、なるべく学生に効率的に技術を授けることが先決問題になっています。要するに、早く社会に出て役に立つ人間を育てようということ。これはよくない。昔は教養部があり、1~2年はそれほど自分の方向性を決めなくてもいいという期間があったんです。大雑把に文学部、という程度でよかった。今は学科まで決めて入学しますよね。つまり(学科側の)4年間で教えるべき内容と目標、どういう学生を作り出そうか、というイメージが出来ているところに入ってくるということ。その路線に沿っていかなくてはならない。それではミスマッチが起きます。これは効率はいいけれども、本当にそのひとの主体的な選んだものになっているかというと問題があると思います。
和食の無形文化遺産登録の責任者であり、今も講演会などで演説をされている
——確かに。ですが、主体的に選びたいけれど、かといって何を基準に選んだらいいのか難しいです。
(熊倉先生)2つ考え方があって、人間は主体的に考え、自分で選び、自分で個性をのばしていくのがいいという教育もあります。それが戦後教育。一方で、もう先行きのことなんて分からないんだから、教え込み鋳型に固めていってでも、きちんとした人間として生きる術を身につける方がいいという考え方もあります。それが職人の考え方。どちらがいいかというのは難しいですよね。僕は両方あると思うんです。自分の興味のないことやってもしょうがない。自分で選んだ上で、ああだこうだ言わせないような強烈な教育が必要です。これからの教育に求められてくるものだと思います。
静岡文化芸術大学では、今後はなるべく自由度を高め、教養を重視しようと思っています。これまで専門科目にあったものをなるべく全学科目に移したり、デザイン学部だったら今ある3学科(生産造形学科・メディア造形学科・空間造形学科)を全て廃止して1学部1学科にしたり。デザイン学部の場合は、大学に入って何をやろうというのは入学してから1年かけて考えて決めるというシステム。今の高校で選びきれない部分を大学にきてから選ぶという方向で考えています。
どこの大学も今の時代にあわせて何をしたらいいかを考えている時代です。各大学でどんな悩みをもって、どのように解決しようとしているのかを取材して、お互いに学生同士で、学生目線で検証したらいいと思う。「大学は大学でやっているけど、そんなことやってもなんにもならんよ」ということは学生でないといえないですからね。
250枚にも及ぶ修士論文を書いたのだそう。リアカーで運んでくるくらいの量を書いた人もおり、当時はそれでようやく「卒論」と認められた時代。
昔、岡山の大学に行った時に猪しかいないような場所だったそうで、そう思うと文芸大はとても良い立地にあるとのこと
遠くのものはよくみえる。でも、本当にいいものというのは地元にあるんだよ。
――構想中の静岡県カレッジサミットには、「静岡県の大学で学びたい」と憧れる人を増やしたいという思いがあります。静岡県だから学べることはありますか?
(熊倉先生)実は静岡文化芸術大学のデザイン学部は7割以上が他府県出身なんです。全国的なレベルで興味をもたれているということです。これは大学が個性化していくとみんなそういう傾向になると思います。秋田国際大学のように90%以上が県外出身者というケースもあるわけです。いいか悪いかは別として。僕は50%は「県内」を確保したい。地元というものが一番大事なんです。遠くのものはよくみえる。でも、本当にいいものは地元にあるんですよ。
僕は和食も一つの研究分野にしていますが、和食というのは「地元のものを食べる」ということです。昔の生活で言えば、自分の畑で採れた野菜を煮て食べて、自分が手をかけたもの、あるいは周りの知人たちからのものを食べていました。そこには、安心感と愛着があります。出来たものと自分との関係がものすごく深いわけです。それを食べるということが「和食」です。今、ものと人間、自分の関係が浅くて、薄くて、軽いものになってきている。
静岡県に住んでいるということは、静岡のものを食べる、静岡のものを使う、身の回りのものと我々がどう密着しているかを実感することだと思います。静岡は自然に恵まれ素晴らしい環境が整っている土地です。花き栽培は日本第3位、1人あたりのお米の消費量も静岡が1位なんですよ。そしてもうひとつ、静岡には東海道がある。五街道制度ができて以来約400年間、静岡は交通の要衝の地なんです。新幹線の駅が6つもある県なんて他にはありませんよ。静岡は交通の面で文化の遺産が多くあるところです。諸君はもっと地元を学ぶべきだと思う。地元の、静岡の素晴らしさを学ぶことが静岡にいることの価値ですよ。そのことを大学生活で満喫してほしいですね。
――県内の大学生に静岡の大学に来てよかったことを聞くと、「恵まれた自然」は圧倒的に多い回答でした(※)。そのような地元のよいところをどのように学び、活かすことができるのでしょうか。(※静岡時代調べ)
(熊倉先生)例えば、富士山。富士山には弥勒信仰というものがあり、弥勒菩薩と呼ばれる人たちが登ったといわれるひとつ霊場です。容易に富士山に行けないような場所では、至る所にミニチュアの富士山をつくるんです。東京都の駒込富士神社には、高さ15~20メートルの富士山があります。護国寺の境内や今はなくなってしまったけど、早稲田にも高田富士という富士山があったんですよ。そこから「なぜ富士山なのか?」という日本人の宗教観の原点がみえてくるわけです。このような静岡にある文化の種(=シーズ)を我々がみつけてくる。そして、大学にその学問的なシーズがある。次にそれをどのように活かすかというと、地元の要求です。だからこそ、我々は地域と密着していかなければなりません。地域が大学に何を期待しているのか、学生に何を期待しているのかを見つけ、マッチングさせていくことが大事です。
「カレッジサミット」も、大学生同士が地域とどんな活動を起こそうか、何が足りないのか、何が問題なのかをお互いに話合える場になるといいね。体験のなかから出された要求は、学生といえどおそらく強い。そういうことがカレッジサミットで話し合えると次のステップに行くいろんな芽がでてくる気がしますね。自分のやりたいことを予算化できないというのが一つ課題だと思いますが、「こういうことをやりたいから、これに見合った予算項目をつくってください」と学生諸君から要求することが必要です。県のレベルだと出来るはずなんです。大学には学生支援経費もありますし、そこに持ち込んでみるのも良いと思いますよ。
倒れて動けなくなるほど、死に物狂いになること
――ありがとうございます!大いに参考にさせていただきます。最後に、熊倉先生は大学生にこれからどうなってもらいたいと思いますか?
(熊倉先生)死に物狂いになる瞬間、を是非もってもらいたいです。大学生は時間が無限にあるといえばあります。無為に時間を過ごすことはある意味で青春の特権で、なんにも生産しないんだけど、そういう時間も大事だと思う。けれども、どこかで無我夢中になって勉強するということをしてほしい。5を要求されたら10返さなくちゃいけない。全部は無理でも、自分が面白いと思ったテーマだったら「この程度」で済まさない。例えば、1600字なら1600字のレポートに30枚くらいの付録つけてだすとかね。僕の場合は卒業論文でしたね。250枚くらい書いたんだけど、本当に懸命に書いて、提出する日についに私は倒れてね。目が覚めたら天井がぐるぐる回っていました。動けなくて、友達に頼んで大学に届けてもらいました。そういう充実感が大事。結局、そのとき勉強したものが一生の種になるんですよ。そういうものを1つ、大学時代に経験してもらいたいと思いますね。
(取材・文/梅田愛)
「いつでも学長室には遊びに来ていいんだよ」と優しい笑顔で迎えてくれました
●熊倉功夫先生(写真中央)
静岡文化芸術大学学長。東京都出身。1965年東京教育大学文学部卒業。1968年同大学修士課程修了。2010年より現職。専門は日本文化史、茶道史。日本食文化の世界無形遺産登録に向けた検討会では会長を務めた。
●聞き手:梅田愛さん(写真右から2番目)
静岡文化芸術大学デザイン学部生産造形学科4年(2013年卒業)。静岡県出身。静岡県カレッジサミットの企画・運営メンバー。大学では、木や鉄、プラスチックを使い作品を制作。この春、大学卒業後、県内のデザイン会社へ就職する。
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Updated:2014年04月17日 特集